日本人旅行者の最新ラサレポート

15 10 2008

日本人旅行者の最新ラサレポート

【チベットへ入るまで〜ガイドの手配】

今年10月、ラサへ旅行に行きました。私にとっては、およそ5年ぶりの訪問です。

表層しか見ることができませんでしたが、旅行者の目線で気付いたことを報告さ
せていただきたいと思います。

現在、チベットへ入る外国人は「入域許可証」と「全行程ガイドの同行」が必要
ということで、日本の旅行会社を通して事前に手配しました。(日本の旅行会社
を通さない方法もありますが、その場合は現地旅行社と直接やりとりして手続き
をすすめることになります。)

ガイドがどの程度まで付き添わなければならないのか、よくわからないまま現地
に入りましたが、割と融通は利きました。終日ずっと同行しなければならない、
というわけではないようです。

ただし、ラサ以外の街へ行くときは必ず同行しますし、旅行手配時に申請してあ
る場所の訪問しか許されませんでした。

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【ラサの様子】

ラサ到着日、まず驚いたのは、空港も道路も新しくなっていたことでした。そし
て、出迎えの車には監視カメラ。空港からラサ市街までの道からは、かつては麦
畑をたくさん見かけましたが、今は商店のような中国風の建物が多くなりました
。新しく建てられたチベット風の家屋も増えていましたが、壁には石でなくコン
クリートブロックを使っており、すべて同じ規格で建てられたかのように、どれ
もそっくりな外観でした。

ラサの市街地に近づくにつれ、漢族エリアがぐんぐん押し広げられているのがわ
かりました。建築中のデパート・集合住宅・ビルを多く見ました。5年前の記憶と
比べると、どこも「近代化」されているようでした。

ジョカンやラモチェ周辺の旧市街では、以前は見ることのなかった中国旗の多さ
に驚きました。屋上から四方を見渡すと、何十もの赤い旗が見えます。建国記念
日(10月1日)の前後には、その数がさらに増えました。屋上だけでなく、通りに
面した窓にも掲げられています。「そうしなければ、警察が家にやってくる」そ
うです。

また、街中のインターネットカフェは、すべて姿を消していました。

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【観光】

主要な訪問箇所の入場料は、下記のようでした。(1元=15.5円 / 2008年10月
時点)

● ポタラ宮殿・・・100元(約1550円)

※荷物のX線検査あり・水の持ち込み禁止・事前予約が必要・1日5000人までの人
数制限あり

※屋上へはあがれなくなりました。

※3月の騒乱がなかったら、200元に値上げする予定だったそうです。

● ジョカン・・・70元

※チケットにミニCDRがついています。(中身はまだチェックしていません。)

● ノルブリンカ・・・60元

※園内の動物園は別途10元(2004年に有料化されてから、チベット人はほとんど
行かなくなったそうです。)

● デプン寺・・・50元

● セラ寺・・・40元

※ガイドによる入域許可証の提示が必要

※問答は行われておらず、入ることができる箇所も制限されています。

● アニ・ツァングン・・・30元

● ヤムドク湖・・・40元

※観光シーズンのみ徴収するようになった模様。

● ガンデン寺・・・訪問不可

● サムイエ寺・・・訪問不可

寺院では、僧侶をほとんど見かけなかったことにショックを受けました。セラ寺
もデプン寺も、閑散としています。とても静かです。

デプン寺で目にした僧侶の数は、15名前後。ガイドの説明では、3/14以前は2800
名がいたそうですが・・・。本堂に並べられた袈裟と帽子のセットを数えたら、
およそ150名分が並んでいました。その150という数でさえ、本当に居るとは思え
ないほど、広い境内は静まりかえっていました。

セラ寺にいたっては、巡礼者の姿さえも、わずかしか見ませんでした。

一方で、漢族の観光客は急増していました。

数え切れないほどの漢族観光客が押し寄せ、バルコル周辺のツーリスト向けレス
トランは占拠され、あらゆる観光スポットにあふれていました。観光客の割合は
、「漢族:漢族以外=95:5」くらいに感じられました。ちょうど国慶節(中
国のGW期間)と重なったことも要因かもしれませんが、とにかく、その多さには
圧倒されました。

日本人観光客は、3月以降、ほとんど戻ってきていないそうです。昨年、鉄道に
乗った外国人観光客は日本人が最多だったと聞きましたが、まるで手のひらを返
したようです。

欧米の観光客はよく見かけましたが、以前よりは少ないと思います。

そんな中、観光化は急速に進んでいるのが感じられました。あらゆる場所の入場
料は、私が覚えているかつての金額から値上げされていました。観光客向けの土
産物店が増えました。ヤムドク湖を見下ろすカムパラ峠や、観光客がフォトスト
ップで立ち寄る峠では、写真を撮らせて小銭をかせぐ人々が増えました。

鉄道は、ラサ〜シガツェ間にも建設される予定で、成都〜ラサを結ぶ新たな鉄道
建設の計画もあるとか。カイラス空港は、2010年に完成するのではないか、とい
う話でした。

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治安部隊ラサ2008.10月

【治安部隊、監視カメラ、スパイ】

昼夜問わず、迷彩服を着た治安部隊が街中を歩き回っています。(正確には「武
装警官」という名前がついているようですが、「警官」という言葉を使うと語弊
があるため、「軍人・軍隊」と書くことにします。)多くの場合、彼らは5人組を
組んでいました。2人が銃を持ち、別の2人は大きな盾を抱え、その裏側に電気棒
(または警棒)を隠しています。バルコルのように人通りの多い場所では、銃は
袋の中に閉まって背中にかけていることもありましたが、むき出しで手に持って
歩いているケースのほうが多かったです。朝夕にバルコルを歩けば、5〜10分に1
回程度、それらの軍隊とすれ違いました。観光客が来ない裏路地やラモチェ周辺
では、その頻度はもっと上がります。

バルコルやジョカン前広場では、合計5箇所ほど、歩哨が屋上に立っている場所が
ありました。そこでも、銃を手にした軍人が、道行く人々を見下ろしています。
そのほか、トムセーカン市場の階段踊り場や、ラモチェ正面の建物2階バルコニー
などでも、常に複数名の軍人が銃を持って立ち、警戒していました。

旧市街には検問所も数多くあり、道路の交差点や、寺の入り口に設けられていま
す。常に4〜8名ほどの軍人が常駐し、銃と盾を手に立っています。彼らがチベッ
ト人を検問している様子は、滞在中は一度も見かけませんでした。

監視カメラは、ジョカン前広場で8個、バルコルの通りに面している範囲内で12個
、確認しました。旧市街のあらゆる路地や寺院内にも設置されているので、その
数は何百・・・もしかしたら千を越えるのではないかと思いました。

一度、夜遅くにバルコルを歩いていた際には、装甲車2台とすれ違ったこともあり
ました。別の夜には北京東路で、軍人を大勢乗せたトラックが走り去るのを見ま
した。

街中にもお寺にも、スパイがいます。人々と話をしていると、どこからともなく
やってきて、耳を澄ませる・・・、そんな場面を何度も経験しました。

子供達が遊ぶ路地裏も、巡礼者で賑わうバルコルも、あらゆる場所がこうして監
視されていました。どんな細い路地でも、銃を持った軍人が徘徊しています。お
よそ平穏とはかけ離れた監視社会・・・。それでも、チベット人たちは彼らの姿
が眼に入らないかのように、祈り、日々の生活を続けていました。

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建国記念日2008年10月1日ラサ

【建国59周年記念日、10月1日】

この日、午前10時からポタラ宮前の広場にて、式典が行われました。広場を取り
囲むようにして、10m置きにならんだ軍人が警備にあたり、一般人は入ることが
できませんでした。整然と隊列を組んだ軍人のパレードが行進し、広場に到着す
ると中国旗を掲揚しました。広場には共産党関係者と思われる招待客らが大勢い
ましたが、距離が遠かったため何名くらいだったのかはわかりません。軍隊とあ
わせて、数千名規模だったと思います。広場は深緑の軍服に染まり、赤い旗が各
所に掲げられ、党歌のようなものが大音量でかけられていました。

その様子を尻目に、チベット人たちはポタラ宮の周りを祈りながら歩いていまし
た。まるで式典が行われていることは全く気づかないかのように、前を向き、黙
々と・・・。

そして、ポタラ宮の正面では、五体投地する人、祈りをささげる人が絶えずいま
した。彼らの顔ひとつひとつには、背後で繰り広げられていることへの無言の抵
抗が浮かんでいるように感じられて、胸が痛みました。

このとき、ポタラ宮を背景にして、写真撮影をする漢族観光客らしき女性がいま
した。サングラスをかけ、両手を高く掲げ、満面の笑みでポーズをとっていまし
た。不自然なほどに長い間、同じようなポーズで延々と写真を撮り続けているの
です。しばらくした後、その理由がわかりました。テレビ局のインタビューを受
けていたのです。おそらく、事前に手配されたサクラなのでしょう。嬉々として
インタビューに答えていました。

このほかにも、スパイらしき人々が大勢、周辺にいました。角刈りの中年男性が
たむろして、何をするともなく辺りを観察しているのです。

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2008年10月ラサ

【おばあさんの涙】

ある朝、バルコルを歩いていたとき、ヤクバターを売るお兄さんの側を通りかか
りました。周囲には小さな人だかりができており、みんな真剣な顔で味見をして
います。その様子が面白かったので、石段に腰掛けて見ていました。

私の横には、おばあさんがひとり座っていました。何気なく挨拶し、笑顔を交わ
し、私が知っている数少ないチベット語のフレーズで話しました。「こんにちは
」「私は日本から来ました」「チベットが好きです」—。しばらくすると、おば
あさんは、手にしていたマニ車を使って、銃を打つ真似をしました。「漢族が、
こうしてチベット人を殺すんだ」ジェスチャーを使って、そう訴えていました。

切実なメッセージを目の前にして、そのとき私にできのは、「プゥラ・シデ・モ
ンラム・ギャギュー(チベットに平和が訪れるように祈っています)」と言うこ
とだけでした。この言葉を口にした途端、おばあさんの目が潤み、涙があふれま
した。そして、胸にしまっていたペンダントを出して見せてくれました。そこに
は、小さなダライ・ラマ法王の写真が入っていました。私も涙が出そうでしたが
、「早くこの場を立ち去らなければ」、と思いました。人通りの多いバルコルで
す。もしスパイにこの様子を見られていたら、おばあさんが後でどうなってしま
うかわからない・・・。手を合わせて別れの挨拶をし、すぐに立ち去りました。

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【チベットへ行きませんか?】

こうして暗い話題ばかり書いてしまいましたが、旅は楽しかったです。不謹慎と
思われるかもしれませんが、とても楽しかったのです。チベット人の底抜けに明
るい笑顔や、穏やかな微笑みに触れると「あぁ、だから私はチベットが大好きな
んだなぁ」と、いつも思うのです。

チベットディスコでは、大きな身体を揺すってチークダンスを踊るおばちゃんや
、舞台上の歌手よりも目立つほどダンスに熱中する観客たちがいました。

ある寺院でカメラをかまえると、お茶目なポーズを撮って周囲を笑わせるおじさ
んに出会いました。

麦の脱穀をしているところを通りかかると、歌ったり踊ったりしながら作業する
家族がいました。

子供達は、好奇心いっぱいの目で語りかけてきました。

数え切れないほどたくさんの笑顔に出会いました。

こんなにも心穏やかで、思いやりに溢れた人々なのに、なぜ —— 。幾度も、
そう思わずにはいられませんでした。チベットが好きになればなるほど、旅を楽
しめば楽しむほど、胸のうちでかみ締める悔しさと悲しさは大きくなります。

複雑な気持ちにさいなまれながらも、今、この時期のラサを訪れて良かったと思
います。たくましく生き、笑う人々がいます。彼らの祈る姿には、心動かされま
す。旅行者に、現状を伝えたい人もいます。

一見、平穏を装っている今の生活でさえ、この先失われていくものなのかもしれ
ません。5年ぶりに訪れてその変貌ぶりに驚いたように、チベットの変化はあまり
に早く進んでいます。

中国政府は、国を挙げて観光化を推し進めています。外国人観光客が行けば行く
ほど、政府が儲かることになります。しかし同時に、外国人観光客は監視の目に
なることもできるのです。国際社会が見ていることを示すひとつの手段になり得
ると思うのです。

チベットに興味がある方には、今の姿を見てほしいと願います。そして、見てき
たことを何かしらの形で報告してほしいと思います。大勢の人が注視し続ければ
、何かを変えることができるかもしれない・・・、そんな淡い期待をこめて。



獄中で抵抗歌を歌い刑期延長、リンジン・チュキの証言

25 09 2008

かつてダプチ刑務所で抵抗の歌を歌い刑期を延ばされた尼僧として、ガワン・サンドルさんは世界的に有名だ。
その時歌ったのは14人だった。
ガワン・サンドルさんは今アメリカに居られてダラムサラにはいない。
14人のうちの二人がダラムサラにいる。
その内の一人チュキは今9−10−3の学校に通う生徒だ。ルンタの中に住んでいる。

二人に話を聞く積りだったが、時間がなくてまずは一人チュキに話を聞いた。
以下は同席したT女史がまとめてくださったものだ。

ーーーー

*リンジィン・チュキ 37歳の証言*

初めて私の前に現れたチュキラは、とても小柄で可愛らしい雰囲気の人だったので、
彼女が過酷な拷問をされたことなど信じられなかった。けれども、片足を引きずる姿がその事実を物語っていた。
以下は、ガワン・サンドル(ひとつ前の日記を参照ください)と同じダプチ刑務所で歌を吹き込んだ尼僧の一人、リンズィン・チュキさんの証言です。

右がチュキラ。左の女性はチュキラと同じ時に収容されていた、ミチュリン僧院出身のフンドップ・サンモラ。
一緒に立会い、インタビューの補足をしてくださった。

*      *       *       *

私は飛行場の近くのロカで産まれ育ち、1988年18歳の時にシュンセップ尼僧院の尼になりました。シュンセップ尼僧院は、文化大革命の影響下で一度は完全に破壊され、
私が入った当時はまだ再建の途中でした。50人ほどの若い尼と一緒に石や土を運び、
尼僧院復興のために働きました。


90年3月のデモ、そして再び・・

二年後、シュンセップの尼20人がデモに行き、全員捕まり酷い姿で帰ってきました。
中には電気棒を女性器に入れられ、ひどい後遺症が残った者、腰が打ち砕かれて
身体障害者になった者、頭を強く殴打されて15日後に亡くなった者もいました。まだ若い尼僧たちに何故こんな酷い仕打ちをするのでしょう。私は、その時は直接デモには参加しませんでしたが、そんなデモの後の惨たらしい光景に、ただ震えていました。

彼女たちが3か月で釈放されたのは、当時パンチェン・リンポチェが、政治犯に刑期を与えてはいけないとしていた為でした。ところが、その後すぐに政治教育班がシュンセップ尼僧院へやって来て、以下の3つのことを指示したのです。

1・ダライ・ラマを批判すること
2・チベットは中国の一部であると認めること
3・中国政府への忠誠を誓い、中国への愛国心を持つこと

上記のことに同意し、サインして提出しなければ、私たちは尼僧院にとどまることは出来ませんでした。けれども、私たちシュンセップの尼僧は全員それを拒否 しました。そして、私は、そのうちの6人とともに尼僧院追放を覚悟の上で、デモをしにラサへ向かったのです。一緒に行ったメンバーは尼僧院での部屋が近 く、最年少は16歳、最年長は22歳の若い仲間たちでした。シュンセップに駐在していた公安や委員会が寝ている夜中の12時に、私たちはこっそり裏口から 脱出しました。歩いて向かったため、ラサへ到着したのは次の日の夕方でした。慌てて決行に至ったので準備は何もできず、夜は二人ずつ別々の知人宅へ泊めて もらいました。

デモ前夜は、恐怖で打ちのめされそうな思いでいました。デモをしたらその場で殺されるか、捕まって酷い拷問をされるかのどちらかなのです。それを承知で覚悟を決めたのですが、やはり決行するまでは、恐くて仕方がありませんでした。

私たちは、とにかくダライ・ラマを批判されることが辛いのです。どんなことがあってもそれだけは拒否し、抵抗しなければなりません。私は、幼いころから ずっと両親からダライ・ラマ法王の話を聞いて育ちました。法王のテープを聴き、その写真に祈りを捧げてきました。仏教の先生も、みな法王を思慕しておりま す。法王は、私たちにとって何があってもお守りしなければならない大切な存在なのです。
私たちは、仏教を学ぶために尼僧院に入りましたが、再建してもなお宗教の自由はなく、十分に学ぶことができませんでした。デモをしても結果は分かっています。それでも私たちには、自由のために抵抗するただ一つの道しかなかったのです。

デモに行く前に、6人でジョカン寺の最も聖なるジョオ像(釈迦牟尼ブッダ)の前で祈りました。「このデモが成功しますように!ダライ・ラマ法王にご長寿を!チベットの早期の独立を!」、と。

午前9時、ダライ・ラマ法王の写真と国旗を掲げ、ジョカン寺の周りを一列になって歩き、叫びはじめました。

「チベットに自由を!チベットの主人はチベット人だ!チベットはチベットのものだ!中国人はチベットから出て行け!ダライ・ラマ法王のご長寿を!チベットの完全独立を!」

周囲の人たちは公安を怖がり、一歩引いた所で私たちの様子を見ていました。5分ほど
歩いた頃でしょうか、予想通り公安が大勢で殴りかかってきました。公安は、私たち一人に対し、二、三人で寄ってたかって棍棒で殴打してきました。私たちは、瞬く間にまるで物を扱うみたいにトラックに投げ込まれ、グツァ拘置所へ連行されたのです。

グツァ拘置所からダプチ刑務所へ

拘置所へ着いたらすぐに10分ほど壁に向かって立たされ、所持品などをすべて没収されました。その後、後ろ手に縄で縛られ、大きな木にしばらくの間吊るさ れました。肩が脱臼しても降ろしてもらえず、私たちはあまりの痛さに悲鳴を上げながら耐えていました。そして、その状態のまま電気棒で手のひら、足の裏、 そして口の中に電流を流されました。口の中に入れられときは、内臓が全部焼けるような激しい痛みでふらふらになり、16歳の少女は気を失って失禁するほど のダメージを受けました。また、一人は鉄錠門に叩きつけれ、額から大量の血を流して倒れました。まずは見せしめのため、私たちを脅すためにそのような過激 な拷問が行なわれたのです。

尋問は、午前11時から午後9時までの間に何度も繰り返されました。問われる内容は
決まっていました。背後に誰がいるのか、誰の指示なのかということです。「自分たちの意思」だと答えても、みんなまだ若いので、誰かの指示に従ったに決まっていると言われ、彼らの望み通りの応えが出ない限り、殴打され同じ質問が繰り返されたのです。

忌々しい拷問は、夜の10時くらいから執り行われました。夜中に監獄の周囲を走らされたり、足をテーブルの上に置かれ、手を床に付けた逆さまの状態でいるよう強いられ、その体勢が続けられないと酷く殴られたりしました。

そんな拷問が二カ月続いたときでした。私たちは全員裁判所へ連れて行かれました。
ところが、そこにいたのは監獄のトップと裁判官だけで、もちろん公正な裁判が行われることはありませんでした。「中国分裂を企てた反逆罪」だという理由で、私を含む年上の3人が7年、下の3人が3年の刑期を言い渡されたのです。

90年12月、私たちはダプチ刑務所へ移送され、長い監獄生活が始まりました。

刑務所へ着くと、私たちは囚人服に着替えさせられ、労働と思想の変換を強要されました。
私たちの仕事は、監獄内にある野菜ハウスのための人糞を、人民病院や軍事基地の
便所から集めることでした。二人一組でリヤカーに乗せ、一日6回も往復させられましたが、公安が必ず自転車で付いてきて監視しているので、逃げることはで きませんでした。糞尿腐敗タンクの中に腰まで浸かってバケツで掬わなければならなかったので、服も身体も常に糞まみれでした。初めはその強烈な臭いに嘔吐 することもありましたが、5,6年同じ仕事をさせられ、臭いにも慣れてしまいました。

けれども、家族には心配をかけてしまいました。月に一度の面会の際、家族は私の体に染みついたひどい臭いを憐れみ、よく泣き崩れていました。特に両親は末っ子の私を心底心配し、バスで一時間半かけていつも駆けつけてくれました。

歌う尼僧たち

1993年のある時、私たち同じ監房にいる6人は、ラサにいる僧侶や尼僧たちを勇気づけるために何か出来ることはないかと話し合いました。そして、一般刑囚人の男性からテープレコーダーを借り、それに歌を吹き込もうというアイデアを思いついたのです。

私たち政治犯の監房は、普段はとても監視が厳しく、外部の人との接触は出来ません
でした。けれども、毎週木曜日に学習会があり、その時だけは政治犯も一般刑囚人も
男女の区別もなかったのです。看守は、政治犯にはとりわけ厳しく、一般刑囚人たちへの政治的影響を避けるためか、彼らと私たちの一切の接触を禁じていました。それだけでなく、一般刑囚人たちは、政治犯を監視し、何かあったらすぐに看守に報告するよう命じられていたのです。

けれども、テープレコーダーを貸してくれた男性は人が良く、政治犯の私たちにとても親切に接してくれました。授業の時しか会えませんでしたが、度々監視の 目を盗んで話かけてくれたのです。テープレコーダーを政治犯に貸すこと自体とても危険なことなのに、見つからないよう工夫し、快く貸してくれました。私た ちは、「もし見つかったら、あなたの物だと言わないから、あなたも絶対に名乗らないでください。」とメモ書きし、授業の時に渡しましたが、「あなたたちの 不利にならないようにしてください。私は場合によっては見つかってもよいと思っています。」という返事がきたのです。彼の勇気ある行動に私たちは心打たれ ました。
彼はチベットのために何かできることはないかと考え、危険を覚悟で私たちを応援し、手助けしてくれたのです。

レコーダーに歌を吹き込んだのは、私たち6人のグループ、ガワン・サンドルと同じ監房のグループ、そしてもう一つの監房の3つのグループでした。レコーダーはもう一台手に入り、2つのレコーダーに、グループごとに別々に吹き込んでいったのです。
私たちはラサの仲間を応援することが一番の目的でしたが、ガワン・サンドルたちはどのような目的であったのかは分かりません。歌の内容は似ていますが、特に話し合ったりはせず、暗黙の了解で私たちはレコーダーを回していたように思います。

私たちは、看守が寝静まった夜中にレコーダーを囲み、声を殺して歌いました。しかし、隣の監房の中国人女性が密告した為、2回目には看守に見つかり、テープを没収されてしまったのです。一本のテープに希望を託していたので、私たちは失望し、落ち込みました。

数年後、亡命してから外国の方に「これは貴女方が歌った曲ですね。」と、言われてCDを手渡された時は、声も出ないほど驚きました。ガワン・サンドルたち が吹き込んだテープが、奇跡的に監獄から外に持ち出されていたのです。まさか、ダプチ刑務所から遠く離れた場所で、私たちの歌のことを知っている人がいる なんて!そして、私たちにこんなに関心を抱いてくれているなんて!嬉しさのあまり、信じられないような思いでした。

数か月して、歌を吹き込んだ14人全員が監獄内のホール(集会所)へ集められました。そこには看守と一緒に裁判所の判事がいました。私たちは壁に一列に並 ばされ、監獄内でプロパガンダに繋がるような歌を吹き込んだという罪で、一人ずつ順番に刑期を言い渡されたのです。延刑は、9年が一人、8年が三人、6年 が二人、残りは5年で、私は5年の刑期延長でした。


5月1日の監獄デモ

1989年のメーデーに、監獄の中央広場で式典が催されました。職員全員に加え、一般刑囚人500人と、入獄して間もない政治犯も動員されましたが、私た ち古株の政治犯は呼ばれませんでした。新人の政治犯を参加させるのは、早いうちから「社会主義賞賛」を歌わせ命令に服従させようとする意図からでしょう。 私たちは監房の窓から、中華人民共和国の国旗の前で、群衆が中国共産主義をたたえる様子を見ていました。すると突然、一般刑囚人の若者が拳を振り上げる姿 が見えました。彼は叫びました。

「プ・ランツエン(チベット独立)! ダライ・ラマ猊下万歳! 中国人はチベットから出て行け!」

そして、次々に囚人たちがこのスローガンを叫び始め、その群集の怒号はダプチ刑務所にこだましました。チベット人たちはどこから持ち出したのか、国旗を振 りかざして熱狂し、囚人と看守は乱闘になりました。中央広場はまるで、ラサでの暴動のときのような戦場と化したのです。窓に釘付けになっていた私たちも、 彼らに届くよう監房の中から大声で叫びました。

「プ・ランツエン!プ・ランツエン!」

慌てた兵士は群衆に発砲し、囚人の身体を部屋へ引きずるようにして連れて行き、次々に放り込んでいきました。そうやって、群衆の怒号は無理やり鎮圧されま した。この記念すべき監獄デモは、入獄してから次第に政治犯に共鳴していった一般刑の囚人たちが、監視の厳しい不自由な私たちに代わって先導したのです。

このデモの際、刑期を延ばされたのは30人で、私は免除されました。尋問への答え方のちょっとした差によって二分するらしいのです。私は、なぜ叫んだのか という質問に対し、「広場に中国の国旗が掲げられるのが嫌だったから。」と、答えました。ガワン・サンドルは「独立のため!すべて組織したのは私です!私 が指導者です!」と答えたそうです。そして、ひどいリンチに合い、6ヵ月独房へ入れられたと聞いています。

ダライ・ラマ法王の御言葉

出所してから4年間ラサにいましたが、委員会や公安に監視され、仕事にも就けず、それは窮屈な日々でした。私は最低限の自由を得るために、ラサで知り合っ た同じ立場の尼僧と一緒に、ダラムサラへ逃げることを決めました。一生に一度だけでも、ダライ・ラマ法王にお会いしたいという思いもありました。

そして、ダラムサラに到着して間もなく、他の亡命者たちと共に法王に面謁できる機会が巡ってきました。私は、法王のお声を聴きながら、ここに辿り着くことができた幸運を噛みしめました。

私たち政治犯に向けて、法王はこのような御言葉をかけてくださいました。

「自分たちの為でなく、他のチベット人の為に立ち上がったあなた方の勇気ある行動に敬意を表します。

けれども、あなた方はもっと勉強しなければなりません。心だけあっても仕事に就けず、生きるのに苦労します。まだ若いのだからたくさん勉強しなさい。チベット語もチベットの歴史も大切ですが、中国語も忘れないで勉強しなさい。

監獄という環境の悪い所に長くいたのだから、今後も身体には十分気をつけて、何か悪いところがあったらすぐに病院に行きなさい。何があっても気持ちを明るく!いつか必ず、自由になる日が訪れますから。」

私は今、法王の御言葉通り、日々勉強に励んでいます。チベットがいつか必ず自由になるよう祈りながら、今は将来のために無心で勉強したいと考えています。 尼僧院を追放されているのでもう正式な尼ではないけれど、私の中で仏教の規律はずっと守られているので、心は尼のままなのです。



ラサのデモの真実

13 09 2008

MLより転載

拝啓

はじめまして、日本の皆様。私の名前はカルサンと言います。私はチベット出身です。日本の皆様にあっては、チベットを支援していただいて本当にありがとうございます。今日は、どうか私の兄さんの身に起きたことを聞いてください。

私の兄さんの名前は、兄さん。とても優しい兄さんでした。兄さんは2008年5月末、中国の警察による拷問が原因で死んでしまいました。享年45 歳でした。兄さんはごく普通の遊牧民で、5人の子供の父親でした。

2008年3月17 日、中国政府に対するチベット人たちによるデモは、チベット全土に広がっていました。私の兄もそのデモに参加しましたが、決して暴力行為は働きませんでした。後日、数人の証人が、兄さんはむしろ暴力行為に訴えようとしていた若者達を説得して止めさせたことを証言してくれています。

デモの後、中国政府は、デモ参加者に速やかに自首するように繰り返し伝えました。兄さんは、自分が暴力行為は行っていないことから、自首をしようとしましたが、自分の名前が指名手配のリストに載っていることを知り、逮捕と拷問を恐れて身を隠していました。警察は兄さんの居所を知るために、兵隊一杯のトラックと 11人の警察官で兄さん宅に押しかけて、14 歳になる兄さんの息子の頭に銃を突きつけ、父親の居所を聞きだそうとしたのです。さらにを警察署に連行して、殴る蹴るの暴行をして父の居場所を吐き出させようとしました。彼は父親の居所を本当に知らなかったのです。結局彼が警察に開放された直後、兄さんは家に戻りました。兄さんの家族や親戚が集まり、兄さんに自首をすすめました。理由は、中国政府が「自首した者の刑は軽くする。」と広報していたということ。また、兄さんは 5人の子供の父親であり、このまま一生逃げ通せるものでも無いということでした。兄さんの息子も警察から帰ってきたばかりということもあり、4月17 日、結局兄さんは自ら地元の地方警察署に赴きました。4月27日、兄さんは地方警察署から拘置所へ移送されたそうです。

5月26日早朝、兄さんが死亡したという訃報が家族に知らされました。警察側は、兄さんの死体を家族に見せる前に、まず家族に対して「死因は病気であって、拷問ではない」と主張したそうです。そして、これから見ることを決して公言してはならないし、死体の写真を撮らないということを誓わされたということです。しかし、病院のベッドに横たわっている兄さんの死体を見た家族や親戚は言葉を失いました。鼻の下辺りから胸の辺りまでの皮膚は火傷による水ぶくれで覆われており、背部は、首の下から腰の辺りまで痣だらけで、肌色の部分がほとんど無い状態だったそうです。

5月30日、警察の監視の下、兄さんのお葬式が行われました。葬列者数も警察により制限されていたため、たった7
人の列席者だったそうです。チベット式の弔い方法・鳥葬により執り行われました。その過程で、参列者達は、兄さんの内臓を目にし、そして兄さんの死因が拷問であったということを100%確信したそうです。右側の腎臓は、つぶれてしまっていたそうです。胆嚢も完全に潰れてしまっており、胆汁が中から飛び出してしまっていたといいます。肝臓の下部も外的ショックによりダメージをうけていました。そして腸は空っぽで空気しか入っていなかったということです。明らかに、私の兄さんは中国の警察と拷問によって殺されたのです。平和的デモに参加したことが、拷問で殺されるほどの重罪なのでしょうか。

私の兄さんは5 人の子供を後に残して亡くなりました。ちなみに長女は盲目です。私の家族達は、命懸けで兄さんの身に起きた真実を私に知らせてくれました。日本の皆様、私の兄さんの死は、チベットで起きていることのほんの一例にしか過ぎません。チベットでは、今もたくさんの人が拷問され、命を危険にさらされています。そして今チベットで起きていることが、世界に黙殺されようとしています。どうか、中国政府による報道を鵜呑みにしないでください。最後まで読んで頂いてありがとうございました。

敬具

Kelsang



中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏

18 08 2008

中国・チベット暴動 その後 チベット人女性作家 ツェリンウォセ氏

華やかに開催されている北京五輪の会場周辺では、中国のチベット政策に抗議する人々が拘束される事件が相次いでいる。三月のチベット暴動は真相が 解明されないまま、現在も六千人近くの僧侶らが獄中にいるといわれる。北京を拠点にチベット暴動の経緯を記録し続けているチベット人作家、ツェリンウォセ 氏にチベット人の思いを聞いた。(北京・鈴木孝昌)

◇  ◇

−拘束された人々はどのような処罰を受けているのか。

「主な収監場所はラサ駅にある倉庫の中。友人の一人は四肢を針金で縛られて一カ月間もつるされ、拷問を受けた。水ももらえず、最後は自分の尿を飲んで命を つないだ。こん棒やワイヤ、電気棒など、拷問に使う刑具は自分で選ばせ、どれを最も痛がるかを楽しむ。トイレに行く時は後ろ手に縛られ、汚物が散乱する床 に顔がつくほどに近づけて、排便させられる。徹底的に人間を侮辱し、おとしめ、もてあそぶやり方だ。耐えかねて自殺したり気が狂ってしまった人も多い」

−事件の死者は結局どのくらいか。

「当局発表の死者数にはチベット人が含まれていない。だが、各地で発砲があり、多くのチベット人が殺された。三月十四日の午後、ラサで特殊警察部隊が一人 の女性を射殺し、すぐに遺体を片付けるのを見た人がいる。自殺者や獄死者、行方不明者などを合わせれば相当な数になる」

−暴動はなぜ起きたのか。

「宗教への弾圧が最大の原因。一九九五年に始まった愛国主義教育はすべてのラマ僧に“チベットは中国の一部である”と認めさせ、ダライ・ラマ十四世を攻撃する言葉を書くよう強要した。僧にとっては地獄と同じ。積年の恨みが爆発するから衝突が起こる」

−当局は「チベット青年会議」を暴動の首謀者とみている。

「暴動は政府への恨みと不満が原因だと言えば、チベット政策が失敗だったと認めることになる。また、軍や警察はなぜ暴動を防げなかったのか。当局としては責任を転嫁する対象が必要なだけ。自分の失敗を認めるわけにはいかないから」

−中国政府との対話は進展がない。当局は高齢のダライ・ラマが死去するのを待っているとの見方もある。

「ダライ・ラマの死後も魂は転生し、永遠に存在し続ける。彼の寿命はチベットの将来とは関係ない。中国は対話について何の誠意もなく、期待はできない。ダ ライ・ラマが求めている自治とはチベット文化に関するものだ。真の自治があるのなら、中国語よりもチベット語を使わせてほしい。ラサではチベット語で手紙 を書いても配達されない。言葉を失った民族は必ず衰退してしまう」

ツェリンウォセ氏(中国名・茨仁唯色) 1966年、ラサ生まれ。チベットに関する詩集、紀行文などを多数発表。個人ブログにチベット暴動の内幕を発表していたが、ブログを閉鎖され軟禁状態に置かれている。

<チベット暴動> 中国チベット自治区ラサでことし3月10日、チベット政策に抗議する僧侶らがデモ行進し、14日には商店や車両を焼き打ちした。暴動は 周辺の甘粛省や四川省にも拡大したが、武力で鎮圧された。当局は死者20人と発表しているが、インドに拠点を置くチベット亡命政府は死者203人とし、現 在も5700人以上が拘束されているとしている。

(東京新聞)



第12回飛騨高山の車座会議が行われました

8 08 2008

7/30、第12回飛騨高山の車座会議が行われました。

ダライラマ法王日本代表、ラクパ・ツォコ氏を飛騨高山にお招きして、「チベット問題の真実」を伺いました。

ラクパ・ツォコ氏は初めての高山来訪に、豊かな自然や古い伝統的な町並みに感動されておられました。

高山花火大会と日時が重なってしまったにも関わらず、100人近くの熱心な方々が集まり車座会議が開かれました。

・チベットは、本来独立国として現在の四川省、甘粛省、青海省、雲南省の大部分を含む広大な土地が、元々のチベットだったこと。

・現在の中国はチベットを「西の蔵」として、チベットの鉱物、森林など全ての天然資源が欲しいがために、チベットを自国の領土として侵略したこと。特に現在、中国内で不足している水をチベットから引き、水資源を確保する動きがあることが報告された。確かにチベットのヒマラヤ山脈からは、ブラフマプトラ川、メコン川などインド、バングラディッシュ、東南アジアに流れる川の流れを中国側に引き直す計画が進んでいるという。

・3/10以来のチベットでの中国政府による締め付け政策への抵抗の火が、虐殺、拷問として今もチベット人に対して行われている事実を具体的な情報として伺うことができました。

半世紀に渡る中国によるチベット侵略の事実は、国際的人権問題として捉えなけれならないという多くの声をいただきました。私達日本人はこのチベット問題に対して何が出来るのかと、参加者全員が問題意識として深く捉え散会しました。



「チベット問題」を知ることから始めよう!

20 07 2008

「チベット問題」を知ることから始めよう! (ひだご坊 08/7/20)



第12回飛騨高山の車座会議ダライラマ日本代表講演

29 06 2008

第12回飛騨高山の車座会議 

チベット問題の真実
ダライラマ非暴力の祈り

講演:ダライラマ法王日本代表部事務所代表
ラクパ・ツォコ氏

 

時;08年7月30日(水)午後7時開演
場所:高山別院庫裡ホール(高山市鉄砲町)別院駐車場使用可
参加協力費:1000円

今、チベットで何が行われているのか。
なぜ、中国はチベットを侵略したのか。
ダライラマは中国とどう対話するのか。
私達は、チベットに何ができるのか。

「飛騨高山の車座会議」は、4月に「飛騨高山仏弟子非暴力平和宣言」として、仏教徒の姿勢を確認し合い、
6月には「チベット亡命の現実」に目を向け、中国によるチベット侵略の事実を直視しました。

そして今、高山市仏教会の協賛を得て、飛騨の超宗派仏教僧侶がチベット問題を自らの問題と捉え、
ダライラマ法王日本代表ラクパ・ツォコ氏により、直接「チベット問題の真実」の話を聞く機会を設けました。
「飛騨高山の車座会議」は、チベット問題の現実が「仏教徒自身の灯明の問題」であると、一貫した姿勢を貫きます。

主催:飛騨高山の車座会議
協賛:高山市仏教会

 



チベット問題:真宗大谷派、中国政府の「弾圧」に抗議 /京都

12 06 2008

チベット問題:真宗大谷派、中国政府の「弾圧」に抗議 /京都

 真宗大谷派(本山・東本願寺、下京区)の宗議会は10日、中国政府によるチベット人への対応を「宗教弾圧だ」として抗議する声明を決議した。声明 は「独自の仏教信仰と宗教文化に生きる人たちの尊厳と誇りを傷つける行為は直ちに中止することを要望します」としたうえで、チベット人との友好と連帯と共 存の道を目指し、非暴力による対話を継続するよう求めている。

毎日新聞 2008年6月12日 地方版



「宗派を越えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」

5 06 2008

「宗派を越えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」

設立の趣旨並びに声明

◇一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。(スッタニパータ)◇

私たち「宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会」は、今現在、中国政府の圧政下にあるチベット人の生命、人権、文化、言語、民族性消滅の危機を深く憂慮し、ブッダの大悲に根ざす正当な怒りによって強く訴えます。

私たちは、この危機が、人類の叡智であるチベット仏教への蹂躙(精神の虐殺)として進行している事実から、チベット問題は私たち仏教徒のみならず、人類全体が直面している慈悲(愛・憐れみ・仁)の危機を象徴していると考えます。

したがって、私たちは、チベット問題の平和的解決に取り組み、これを成し遂げることは、日本社会における弱者、自殺やいじめ問題の解決はもとより、世界各地に蔓延する暴力と格差と貧困の克服への道と、深く重なり合うものであると考えます。

チベット問題の克服とは、人間性を蹂躙する物質主義に偏る現代世界に、慈悲の価値を再びよみがえらせることにほかなりません。したがって、私たちはダライ・ラマ14世の提唱する、非暴力と対話による解決を心から支持し、ともに慈悲の精神をもってこの問題の平和的な解決に取り組みます。

私たちは、中国政府に対して、今こそ真の友好精神に則って、ダライ・ラマ14世との直接対話を求めます。また日本国政府に対しては、この歴史的な対話の舞台を用意することを求めます。

世界に慈悲を再生するために、平和国家である我が国は今こそ行動を起こすべきであり、その歴史的な役割を十分に果たしうる力を有していると確信します。この具体的要望は、私たちが今後も提唱する慈悲心発揚の一環です。

今、多くの日本人が四川大地震の被災地復興の支援活動を展開しています。中国政府をはじめ、中国の皆さまは、チベット問題の平和的解決を願う私たちの行動も、被災地復興を願う行動と、まったく同じ慈悲の精神より発動していることをご理解ください。チベット問題の平和的解決がもたらされれば、全世界は中国への賞賛を惜しまないでしょう。それこそが21世紀の中国にとって、真の幸福をもたらす道であると信じます。

私たち日本人僧侶は、ここに宗派を超えて結集し、中国政府、日本政府に対し、チベットにおける真の平和と自由を実現する、日本における直接対話を強く求めます。    合掌

平成20年5月29日

宗派を超えてチベットの平和を祈念する僧侶の会

代表 川原英照 副代表 柳下純悠
幹事 赤川淨友 飯島俊哲 今井長新 大木宗完 大樹玄承 岡澤慶澄
小林秀英 橋本純信 林秀穎 水谷栄寛 若麻績敬史
顧問 上田紀行

問い合わせ先: 川原英照 蓮華院誕生寺
〒865-0065
熊本県玉名市築地2288 
TEL:0968-74-0971 
FAX:0968-74-1675



チベット問題で声明文 書写山円教寺に賛同の声

21 05 2008

チベット問題で声明文 書写山円教寺に賛同の声
2008.5.21 02:59

 チベット問題に対し、天台宗書写山円教寺(姫路市)の大樹玄承執事長が「宗教者としての声明文」を発表したことに、全国から多くの賛同の声が届いた。大樹執事長は「チベットの現状に憂慮する人々の声を無視してはならない」と話している。

 声明文で大樹執事長は「宗教者、仏教者として、チベット人の苦しみを黙って見過ごすことはできない。ダライ・ラマ法王を中心に仏教国として歴史を重ねてきたチベットがなくなろうとしている今、私たち仏教者は草の根から声を挙げていかねばならない」と訴えた。

 この声明文が発表されると、同寺にはメールやはがきなどが300通近く届いた。そのほとんどが賛同する意見だという。中にはカナダやオーストリアなどからのメッセージもあり、「政治的理由での宗教弾圧は許されない」「勇気ある行動に感動した」などの内容が書かれていた。

 大樹執事長は「日本の坊さんに何とかしてほしいという思いが感じられた。読んでいて、胸が熱くなった。チベットの現状に憂慮する人たちの思いを、仏教者として見放すことはできない」と話す。

 そのうえで「中国が日本仏教界にとって良き友人であるなら、ただすべきところはただすべきだ」とし、天台宗が8月に比叡山延暦寺で行う「平和の祈りの集い」でも、チベット問題へのメッセージが発せられれば、と期待している。

産経新聞