ラサからの手紙

16 05 2008

MLより以下の記事の翻訳を転載します。

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http://tibetanuprising.org/2008/05/10/a-letter-from-lhasa/

2008年5月8日

下の手紙が、匿名希望のラサの住民から届いた。ラサの現在の状況と緊張感に関する私感が綴られている。

昨日は割と暖かく、ガソリンスタンドを警備する兵士たちは日よけの傘をさしていた。今日はその反対で寒く、曇っており、暴風雨が山々や、時には谷間をさまよい、雪もちらついている。天気と同じように、ラサの規則も変わりやすい。ほとんどどこへでも行ける日の翌日に、軍の検問所が通行を禁じたりする。先週の始めのうちは、日常がほとんど戻ってきたように見えた。検問所の警備はリラックスしており、もう深刻そうには見えなかったし、さらに通りの軍隊も少なくなっていた。しかし、軍の厳しい規制は突然戻ってきた。数日前の夕方、私は北京路を歩いていた。たくさんの軍用トラックが通り過ぎ、町中をパトロールしていた。一般車両はごく僅かで、通りにはほとんど一般市民がいなかった。緊張感が漂い、普段は童顔の兵士たちが、突然恐ろしく見えた。
最近のラサの状況を述べるのは、包括的なことが分からないので難しい。町を見回してみると、ポタラ宮殿の東のチベット旧市街以外は普通に見えるかもしれない。旧市街では、軍が各交差点を押さえており、各通りの両側に立ち、身分証を厳しくチェックしている。小さな路地にさえ、少なくとも4人の兵士がおり、その内の少なくとも一人は銃剣を持ち、全員が盾と警棒、ヘルメットを装備している。大きな交差点には警備の兵士も多く、通行人はチェックのために並ばなければならない。漢民族はチベット人よりも簡単に通過できる。Tromsikhang地区とBarkhor地区に住むチベット人は、自宅周囲への外出の許可を得るのに、警察の発行した特別許可証が必要となる。

ジョカン寺前の広場は、普段は五体投地をしたり、(宗教的な儀式として)歩き回ったり、憩いにくる人たちで溢れているのだが、今は全く誰もいない。広場の前では2人の青い制服の兵士が誰も広場に入らないよう見張っている。どちらかが休む場合は緑の制服の兵士が突然現れ、普段は憩いの場であるこの広場に人が入らないよう監視に当たる。ジョカン寺の周りの通りも空っぽだ。通行できるのは近辺の住民のみだが、ジョカン寺を回るコラス(宗教的なもの)は全面的に禁止されている。いつもなら活気のある商店やコラスは影を潜め、軍隊の警備のそばでサッカーなどをして遊んでいる小さな子供たちがいるぐらいだ。

政府は北京路とセラ路の工事を始めた。所々掘り返され、3月14日の抗議で車が焼かれた際に残った跡を消している。抗議者が商店の窓を割るのに使った北京路の敷石も、元通りに敷き直されている。ラサを歩いていると、まだ焼かれたり壊されたりした商店が目につく。北京路だけでも焼かれたものが約16軒あり、それには中国銀行と宝石店が含まれる。

道路や商店のみならず、いくつかの伝統的な古いチベットの家も再建されている。

ぱっと見には、厳格な軍の存在が見えないかもしれないが、ホテルや中庭、塀の中にトラックやテント、訓練中の兵士などがいる。外から見えない全てのスペースに、軍が存在している。空きビルや、建物の影、時にはラザ市立人民病院の中庭に隠れている。

ラサの通りを歩くと、大きな茶店はたいがい閑散として、商店も閉まっており、人々がどれほど恐れているかを感じることが出来る。集まりには疑いがもたれるため、通りで友達に話しかける人もほとんどいない。

それほど恐れていない人に会って話ができることもある。決まっていつも同じ、劇的で腹の立つ恐ろしい、悪夢のような話を聞く。しかしながら、それらを裏付ける証拠もないため、メディアに情報を提供するのは難しい。3月14日以降、ラサ市は戒厳下にあるが、軍のカメラに監視されているため、人々はジョカン寺の前の戦車などの写真を撮ることを恐れている。通りの死体は軍によってすぐに運ばれ、実家などに安置してあった遺体も夜間の軍の捜索中、軍が引き取っていった。兄弟や親戚、友達の死を証明する手だてが無い。彼らが行方不明になったことを確認することしかできない。犠牲者数や逮捕者数に関する噂だけが飛び交っている。人々に不安が伝染している。

きのう、私はあるチベット人の男性と話をした。彼は自分と友人たちについて話し、ラサで何が起こっているのかを世界中に知ってほしがっている。彼の持つ情報が海外メディアに伝われば、ここの人々を助けてくれ、みんなもう怖がらなくても良くなるので、私に情報を広めて欲しいと頼んできた。私と話すことによって彼は逮捕や拷問を受けるリスクを冒しているのだが、そんなことも気にならないほど必死な様子だった。彼や彼の家族、友人、そして私自身を守るため、彼と会った場所や彼の年齢や職業の詳細には触れない。以下が彼が私に語った内容である。

「3月14日の午後に、私たちはラモチェ寺の前でデモが起きていることを聞いた。その後、私たちはジョカン寺の前で射殺死体を運んでいる4人組を見て、非常に恐ろしくなった。普通は政府は抗議者にはガスや水を使用するべきなのに、ここでは抗議者は射殺される。そこで私たちは急いで帰宅した。夕方6時頃、妻が子供を学校まで迎えにいった。その時には、軍は既に学校のある通りに来ていた。軍は子供を迎えにきた人々に発砲していた。足を撃たれた女性と、頭か首を撃たれて死んだ男性がいる。後で彼の兄弟が病院に遺体を引き取りにきたが、病院は拒絶した。最終的に彼は病院に、遺体を渡さないのなら自分自身と病院を燃やすと脅迫した。そこで病院は遺体引き取りを許可したが、数時間後に軍が来て遺体を持っていった。

3月14日以降、遺体を鳥葬場に運ぶために3枚の書類が必要になった。もしこの3枚を揃えていない場合には、軍によって強制的に遺体とともに自宅に戻される。これは、チベット文化では不吉なことである。3枚の書類とは、地方警察によるもの、病院によるもの、弁護士によるものである。これを実行することで、政府は異常な状況のもとで亡くなった人たちを発見し、家族から遺体を取り上げることが出来る。そのため、遺体の写真を撮ってチベットの外の記者に見せることが出来ない。問題は、事務所がここ何日も閉鎖しているため、家族の遺体をチベットの占星術に従った日に鳥葬場に運ぶことが出来ないことである。

5月14日から16日の間、軍が私たちの地区に深夜の家宅捜索にやってきて、ダライラマの写真を持っていないかチェックし、身分証を持たない者を連行していった。軍は抗議に参加した者の写真も持っており、その写真に写った人々を捜していた。約50人の銃を持った兵士が私たちの家にやってきて、徹底的に家宅捜索をした。3日間トイレに行く以外家から出られず、サンパ以外に食べる物もなく、ガスの切れた家では湯を沸かすことも出来なかった。私の住む長屋の門は閉ざされ、その前に兵士が立っていた。外に出ると彼らに
殴られた。3日後、政府のために働いている者たちに電話があり、彼らはみな仕事に戻った。そうじゃない者たちはみな引き続き外出を禁じられた。この就労許可を持たずに外出した少なくとも7人の人々が逮捕され、一人が射殺された。

3月27日から29日だったと思うが、外国人記者がラサに来たとき、軍が急に通りから消えた。制服ではなく交通警官や門衛、私服などを着て、彼らは外国人記者から見えないところに隠れていた。私たちにも急に外出許可が出た。この3日間は検問所もなかった。外国人記者が自由に歩き回ることを許可された際には、平服又は民族衣装を身に着けた職員が記者に同行し、彼らの質問に答え、メディアと話した人々の写真を撮った。私はメディアに、やらせの影で何がここで本当に起こっているのか伝えたかった。しかしながら、それを実行していれば後日罰を受けることになるのでできなかった。ジョカンの僧たちがそれを伝えたことを聞いたとき、私たちはとてもうれしかった。

ジョカン寺の中にいた巡礼者たちは、その3日間サクラを命じられていた政府関係者たちだった。普段は彼らは宗教活動に携わることを許可されていないが、その3日間はそうせねばならなかった。その他の政府関係者たちも、ラサに自由があるように見せるために、家族を連れてバルコーやポタラに行くよう休暇が出されていた。

外国人記者が去ったと同時に、軍は再び取り締まりを強化した。外国人記者に訴えたジョカンの僧たちは、2日後に逮捕されたらしい。

4月17日から20日の間、セラ寺のほとんどの僧侶がどこかへ連れて行かれた。セラ寺には普段300人の僧侶がいるが、今残っているのは礼拝堂の世話をするほんの数人である。15日から20日の深夜、軍のトラックが来て、僧侶を拘束した。私たちはこの情報を寺の内部と寺の近所の人々から聞いた。ラサ近郊の大僧院であるドレプンとガルデンで何が起こっているのか知らないが、僧侶たちは逮捕され、ラサからどこかへ連行されたと聞いている。

ラサ近郊の僧院から多くの僧侶と尼僧が連行され、残った者も軟禁されている。オリンピックの聖火がラサを通過する際、再び抗議の起こることを政府は恐れているのだろう。だから彼らを拘束するのだ。政府は抗議に参加したか否かを問わず、僧侶を全て連行していった。僧院に残るのを許されたのは、礼拝堂の管理人、運転手とわずかの僧院の労働者たちである。

最近、通りでほとんど僧侶を見かけない。チベットのテレビ局では、怪しい者を見かけて通報した者には礼金が払われると宣伝しているので、僧侶が通りを歩くのは危険である。礼金はわずかだが、それでも僧侶や尼僧を見かけると通報する者もいる。先週以来、政府の学校の学生と教師以外でラサ出身ではないチベット人は、故郷に帰るように命じられている。現在、警察が戸別訪問し、ラサ出身ではない者は立ち退きを命じられる。聖火リレーの際には、地元民と漢民族だけが許可される。数年前のチベット解放50年記念の際に同じようなことがあった。

刑務所は今大きな問題を抱えている。食糧、水、毛布が不足している。囚人は地べたに寝ねばならず、一杯の水しか与えられない日もある。そのため健康を害し、体が弱くなり、刑務所内あるいは釈放後に死ぬ場合もある。囚人たちは強く殴られる。特に腎臓、肝臓、胆のうなどを強打され、内部損傷により死に至る。これは釈放された3人の友人たちから聞いた話だ。

私たちは獄中にいる家族や友人の身を案じている。助けなければならないのに、どうすればよいのか分からない。だから外国人にこれを知り、助けて欲しい。ラサには厳しいコントロールが敷かれている。身分証なしで外出できず、地区によっては特別な書類も必要となる。集まったり議論していたりすると、逮捕される。

学校や職場では、人々は3月14日の出来事についての報告を書くよう強制され、ダライラマ法王の悪口を言わねばならない。「ダライラマ」ではなく「ダライ」と書かなくてはならない。そうしないと書き直しさせられる。私の子供はこのような報告をもう3回も書かされている。

囚人の身を案じ、心配している。デモの後、イラク戦争のニュースで見たような軍の乗り物を私たちの町の中で見かけた。こういった乗り物は、二国間の戦争のみに使用されるものだと思っていた。チベットのTV局は、「戦争の疑似体験ができたのは軍にとって訓練の良い機会であり、軍は人を撃って殺す訓練ができ良かった。彼らはよくやった」と言っていた。

聖火リレーを迎える準備が始まった。彼らはポタラとジョカン広場を飾り付けしている。五輪の巨大ロゴがジョカンの前に掲げられたが、昨日の晩また取り外された。」

この男性の語ったストーリーは、私もまた別の人たちから聞いていた。

中国政府は、これから数ヶ月は外国人旅行者のチベット入りを許可しないだろう。チベット人たちは、外国人にこの話のできるチャンスを望んでいる。何が起こったのか知らせたがっている。彼らは外国の助けが必要だと考えており、それゆえに、中国政府は外国人観光客を禁じることで、ここの状況を統制し、検閲し、抑圧する考えなのだ。ラサで起
こったこと、現在も起こっていることは、非常に恐ろしくて悲しいことだ。僧侶が中国の拷問手段や今回の弾圧に使用した銃のタイプについて話すのを今まで聞いたことがなかった。そして、チベット人たちが怒りと絶望につき動かされ、殺されたり、長期投獄されるかも知れないようなことをするのを今まで見たこともなかった。

勤労感謝の日(?)と5月の聖火リレーを控え、ラサには不安が高まり、自宅軟禁によって食糧の蓄えが底をつく恐れがある。

検問所で兵士と議論する人々を毎日見かける。検問所を通ろうとする父娘に対し、兵士は父親の方には通過を許可していたが、身分証を持つ年齢に達していない娘は許可されなかった。

しかしながら、このような困難な時期にも、勇敢で善良な行動を見かけることが出来る。きのう、私は1、2歳の男の子を見た。この子は「チベット人の精神」の良い見本を示していた。歩き始めたばかりのような子で、おばあちゃんと犬の散歩をしていた。彼らは、青服の警官の監視するジョカン広場の前に立っていた。おばあちゃんが体が弱って五体投地ができないため祈りを捧げている間に、男の子は3歩広場に踏み入り、ジョカンに向かって五体投地をした。その後で、男の子は兵士とおばあちゃんを見上げ、寺に向かって近づいていった。警備の兵士は男の子を見ていたが、どうすればよいのか戸惑っていた。10メートルほど先で男の子は立ち止まり、再び五体投地をした。そして振り返り、警備の方へ歩いていき、彼の手を取り「さようなら」と言った。これをみて、私は全てのチベット人の望むのは信教の自由と、文化を守る権利であるのだと思った。

人々はダライラマを非難する文章を書くことや、愛国再教育、生活を難儀にする規則や決まりにうんざりしている。

2008年4月28日、ラサにて。
****************転載以上


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